それから、何度か駆け引きのような挨拶を、メールで繰り返している内に、亜美は赤いストールの本名を掴んだ。
「俺、ホタルって言うの。覚えてる?」
「ううん。本名は?」
「北条瑛一」彼はそう言うと、携帯の向こうでくるっと宙返りしたように思えた。「君の本名、聞いていい?」
「嵯峨亜美」
「いい、名前だ」彼は、またくるっとバク転したように言った。「今度、会わない?」
「いいけど・・・」
「明日、どう?」
「明日は無理」
「なら、いつがいいの?」
亜美は、忙しくカレンダーに目を走らせて言った。「12月5日なら。H駅の、駅ビルで」
「分かった。2時にね」
あはは、と笑い声を残したように、メールは切れた。
亜美は、クローゼットに駆け寄って服を探した。上等な外出着は、もうほとんど桂さんを通じて古着屋に売ってしまっていた。(買わなきゃ・・・)
亜美はその晩、迷ったあげく、ショッピングモールの3Fで、黒とグレイの、オフタートルのワンピースを6000円出して、買った。
12月5日。
赤いストール、いや、瑛一は例によって、少しふらふらした足取りで、H駅ビルの正面口の、亜美の前に姿を現した。手首には、20万はしそうなブルガリの腕時計が光っていた。
「こんにちわ」
「こんにちわ。早いね・・・。」瑛一は、思ったより子どもっぽい声音の、しかし大人びた口調で言った。「どこで、お茶する?」
「2Fの仏風カフェに行きたいな・・・」
「行くしかないね」
亜美と瑛一は、並んで窓際の席に腰を降ろした。いやでも、亜美の眼は手首に惹きつけられた。
「あ、これね」瑛一は、軽く言った。「俺の、商売道具」
「ごめんなさい」
「あはは」瑛一は、また宙返りするように言った。「いいんだよ。・・・おたくだって、なかなかのしてる。・・・ベーでしょう?」
「うん」
「俺さ、こないださ、姫系の女の子ひっかけたの。でも、アニエス・ベーってフランス語、読めないんだ」屈託ない調子で、瑛一は言った。
姫系が何だかは、よく分からなかったが、亜美は調子を合わせてにっこりした。
「ここの雑貨、私好き」
「俺もだよ。・・・あの名刺入れ、どうかな?どう思う?」
瑛一は、すぐ傍にある名刺入れを指差した。表にパリの地図が、印刷されているものだ。
「いいと、思うけど・・・」
「じゃ、それ買う」瑛一は、これまた高価そうな財布から4000円を抜きだした。
「ありがとうございます」店員は言った。
「ありがとう。・・・おたくのおかげで、いい買い物出来たよ」
それから、暫く、亜美と瑛一はウインドーショッピングをしながら雑談した。
「映画も音楽も、読書も好きさ」
「私、『きみにしか聞こえない』って言う、映画が好きで・・・」
「知ってるよ」瑛一は、言った。「あれ、舞台、K市だろ?」
「うん」
「俺、どこの時計屋に勤めてると思う?」
「?」
「K市」瑛一は、携帯を取り出した。「昨日、店長と撮った写真」そこには、今とは全く別の笑顔の青年が映っていた。「俺さ、これ、接客用の顔」
「ふうん・・・」
「今と、違うだろ?」
「違う」
「あんた、気に入ったよ・・・」瑛一は、急に顔を近づけて言った。「また、会おう」
「うん」
瑛一は、ふっと笑顔を見せると、それきり黙って歩いた。・・・亜美も、黙って歩いた。
「さよなら」
「またね」
瑛一と別れた亜美は、ふいに思いついて、5Fの本屋で、「GIRL’S PLAY BOOK」を思い切って買った。
その晩、またメールが来ていた。「今度、来週会おう」亜美はなんとなく寝つかれなかった。